尊王攘夷思想の結実『新論』
幽谷の思想は、門人の会沢正志斎(1782〜1863。名は安「やすし」、通称恒蔵「こうぞう」)に継承され、文政8(1825)年3月の『新論』の著述に結晶した。
本書は、同年2月に幕府が異国船打払令を交付したことを契機として、政治の刷新と軍備の充実とのための方策を述べたものであるが、単に技術的な意味で軍備の充実をはかるばかりでは不十分であるとし、「民志を一にす」ること、すなわち、国民の意志を結合して、自発的に国家目的に協力させることこそが、政治の基本であると主張し、その民心統合のための方法として、尊王と攘夷との2つの方策が重要であることを説いたところに、特色がある。
この考え方では、尊王も攘夷も、それ自体が目的ではなく、国家体制を強化するための手段として位置づけられている。
尊王論や攘夷論は、これ以前からも唱えられていたが、両者が結合されて、整然たる国家主義思想の体系にまとめられたのは、本書が最初であり、日本における国家体制の伝統を表現した「国体」という概念を、初めて提示した点とともに、国家主義思想の形成史上に1つの画期をなしている。
本書は、第八代藩主斉脩(なりのぶ)に上呈されただけで、一般には公表されなかったが、やがて天保年間頃から門人らの手で筆写されて広まり、さらに嘉永年間に木活字本、安政4(1857)年に整版本が出版されて、全国的に大きな影響を及ぼし、尊王攘夷思想の経典のようにみなされるにいたった。
水戸学の教育理念を示した『弘道館記』
斉脩の次の藩主斉昭のもとで、天保年間に藩政の改革が行われるが、この時期に幽谷の子の東湖(1806〜1855。名は彪たけき、通称虎之助)が斉昭の信任を受けて、即用人にまで取り立てられ、実際の政治のうえで斉昭を補佐したので、いわゆる藤田派が改革を推進する勢力の中心を占めることとなった。
特に天保12(1841)年に開設された藩校弘道館は、改革の1つの眼目をなすものであったが、その教育理念を示した『弘道館記』(成立1838)は、水戸学の精神を簡潔な文章に要約したものとして重要である。
館記には斉昭の署名があるが、実際にこれを起草したのは東湖であって、東湖はまた、斉昭の命を受けて館記の解説書『弘道館記述義』を著した。
本書が執筆されたのは、東湖が天保15年から斉昭とともに幕府の処罰をうけて蟄居させられていた期間のことで、弘化4(1847)年に脱稿した。
本書は、『新論』と並んで、水戸学を代表する文献であって、『新論』が政治のあり方を主題としていたのに対し、本書では道徳の問題が主題をなし、明治以降に国民道徳として説かれるものの原型が、そのなかに示されている。
「弘道」の語は、『論語』に出展があるが、本書では、記紀神話に始まる日本の歴史に即して「道」を説き、日本社会に固有の道徳理念を明らかにした。
東湖はなお、同じ蟄居の期間に、『回天誌史』は、同じ時期に作られた漢詩『正気歌(せいきのうた)』とともに、幕末の志士の間に愛誦された。政治的実践者であり、また詩人でもあった東湖の文章には、国家的危機の意識のもとで行動しようとする人々の情感に強く訴えるものがあったからである。